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2021年7月21日

水都・大阪—大阪と水との関わり—

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大阪は古くから、「水都」や「水の都」と呼ばれてきました。

淀川をはじめとする河川が市中を貫き、幾多の堀川が開削され、水運が発達しました。

江戸時代の書物には「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟中にあり」(広瀬旭荘、九桂草堂随筆)と記されています。

大阪は大正区に店をかまえる共同ゴム。水と切り離せない大阪にあり、水と深く関わる仕事をしてきた共同ゴムが、水と大阪の深いつながりについて語っていければと思います。

大阪と河川

大阪市内には淀川を筆頭に33もの河川が市中を流れ、都市のなかで河川が占める面積は10%にも及びます。これは日本の大都市のなかでも最大です。(東京都区部5%、横浜市3%、名古屋市5%、広島市3%)。

市内のあちこちに河川があり、お互いにどこかでつながったり途中で名前が変わったりしているため、慣れていない人にとっては目の前の川が果たして何川なのかもよく分からない、といったこともあるのではないでしょうか。

大阪と災害

一方で忘れてはならないのは、水との近しい関係は災害とも隣り合わせだったという事実です。

われら共同ゴムが位置するのはJR環状線の大正駅近く。その大正駅から北へ進み、木津川にかかる大正橋を渡ったたもとにその歴史の一端を物語る碑がひっそりと建っています。

「大地震両川口津浪記石碑」といいます。(トップの写真。大阪市有形文化財)

碑の記録

江戸時代の1854年12月24日に発生した安政南海地震で犠牲となった人々への慰霊碑で、地震の際に船に避難した人々が襲ってきた津波で犠牲になったことなどが書かれています。その際の被害は1万人以上だったとも推測されています。

近くに現代文訳もあったので掲げます。

この碑が最も強く訴えかけているのが、同じ過ちを繰り返すな、というメッセージです。

「今後もこのようなことが起こりうるので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけない」、「津波の勢いは、ふつうの高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい」、「心ある人は時々碑文が読みやすいように墨を入れ、伝えていってほしい」

安政の地震に先立つ147年前、1707年10月28日に起こった宝永地震の際にも、人々は船に避難し、津波に襲われました。津波被害を含めた死者は2万人という説もあります。その際の教訓が忘れられたことで1854年の安政の地震でも同じように被害を受けてしまった…。当時の人々はその強い後悔を碑に刻み、そして後世のわれわれに教訓を語り継いだのです。

高潮から大阪を守る

関西地方を襲う大地震は100年から150年に1度の周期でやってくると言われます。1854年からでいえば150年はすでに経過し、南海トラフ地震の到来は確実視されています。

一方で、台風や大雨に周期はありません。毎年のように災害に見舞われる可能性があり、また年々激化していることを肌で感じる日々です。

記憶に新しいところでは2018年9月4日の台風21号がありました。関空の連絡橋に船が衝突し、大阪湾の潮位が最高になった激しい台風でした。

この台風の時にも高潮が大阪市内を襲っていた可能性はあったのですが、実際には大阪市内の浸水はほぼゼロでした。

実はそうした高潮から大阪を守りひそかに活躍していたのが、水門などの防災設備だったのです。

次回は共同ゴムも深く関わっている大阪市内の水門について語っていきたいと思います。